人事相談FAQでは、実際に運営者(RWC合同会社・RWC社労士事務所)が取り扱った人事相談のうち、頻出の事案あるいは重要と思われる事案を厳選し、医療業界に置き換えてご紹介しています。
依頼者からのご相談

当院は、院長(私)の高齢化と後継者不在のため、近隣で数拠点を運営する大規模な歯科医療法人に吸収合併(M&A)されることになりました。
合併に際し、スタッフの雇用は維持されますが、給与体系は「新法人の規定」に統一されることになっています。当院では古くから「住宅手当」を月額2万円支給していましたが、新法人の規定には住宅手当が存在しません。
そこで今般のM&Aに先立ち、当院の事務長から以下の相談を受けています。
- 合併に伴い、新しい法人の規定が作成されましたが、まだスタッフには周知しておらず、労働基準監督署への届出も済んでいません。この状態で住宅手当の支給を止めても問題ないでしょうか?
- 新法人に転籍したスタッフから「以前の規定では住宅手当があったはずだ」と請求された場合、遡って支払う義務はありますか?
- スタッフの納得を得ながら、円滑に給与体系を統合するための実務的なステップを教えてください。
スタッフの離職を防ぎつつ、統合後のガバナンスを確立したいと考えています。
ご相談への回答

歯科クリニックのM&Aにおいて、労働条件の統合は最もトラブルが起きやすい領域です。結論から申し上げますと、新法人の就業規則(賃金規程)が適切に周知・届出され、法的に有効な状態になるまでは、旧クリニックの住宅手当を支払う義務が継続します。
M&Aにおける「権利義務の承継」
M&A(合併)において事業の包括承継がなされる場合、特段の事情がない限り、労働契約上の権利義務関係はそのまま新会社(新法人)に引き継がれます。
- 旧規定の有効性: 合併したからといって直ちに旧クリニックの就業規則が無効になるわけではありません。新法人で新たな規則が適法に成立し、適用されるまでは、旧クリニックの労働条件(住宅手当の定めなど)が維持されることになります。
- 委任の法理: 労働契約時に個別に手当の額を合意していなくても、就業規則に住宅手当の定めがあり、それがスタッフに周知されていたのであれば、それは有効な労働条件となります。
新規程が有効になるための要件
ご相談のように「作成はしたが周知も届出もしていない」状態では、新しい賃金規程はスタッフに対して法的拘束力を持ちません。
- 周知の義務: 就業規則が法的規範として機能するためには、その内容をスタッフがいつでも閲覧できる状態(周知)にしなければなりません。
- 届出の義務: 労働基準法第89条に基づき、所轄の労働基準監督署へ届け出る必要があります。
- 遡及支払いのリスク: これらの手続きを怠ったまま住宅手当の支給を停止した場合、スタッフから請求があれば、停止した期間分を遡って支払わなければならないリスクがあります。
適正な「不利益変更」の手続き
住宅手当の廃止は、スタッフにとって「労働条件の不利益変更」に該当します。これを有効にするためには、以下の要件を満たす必要があります。
- 客観的かつ合理的な理由: 法人統合による体系一本化の必要性などを丁寧に説明します。
- 労使間での十分な協議: 一方的な通告ではなく、スタッフ代表との話し合いの場を設けます。
- 代償措置や激変緩和措置: 「住宅手当はなくなるが、基本給を調整する」「数年かけて段階的に減額する(調整給)」といった、手取り額が急激に減らないための配慮が、不利益変更の正当性を高めます。
本件のポイント

- 合併後も、新法人の規則が有効になるまでは「旧クリニックの賃金ルール」が適用される。
- 就業規則(賃金規程)は、周知と届出が完了して初めて法的効力を生じる。
- 「周知・届出」前の手当カットは未払い賃金となるリスクがあり、スタッフの不信感を招く。
- 住宅手当の廃止などの不利益変更は、合理的な説明と「調整給」などの激変緩和措置をセットで行うのが定石である。
- スタッフのロイヤルティ(忠誠心)を守る「サービス・プロフィット・チェーン(SPC)」の視点からも、誠実な合意形成が経営上の最優先課題となる。
事業承継は、スタッフにとって将来への不安が募る時期です。ルールに基づいた透明性の高い手続きを踏むことが、承継後の診療の質を維持し、組織としてのガバナンスを強化する第一歩となります。
本記事の内容は投稿時点の法令にもとづき要点のみを平易な表現で執筆しています。実務においては所轄の官公署にご相談のうえ、貴院の実情に応じて適切にご対応願います。なお弊社でもオンライン人事相談を実施中です。詳しくは弊社ホームページよりご確認ください。