はじめに
医療機関(病院・診療所)における人的資源管理は、質の高い医療サービスを提供し、経営の安定を図るための根幹であり、そのルールブックが就業規則です。本記事では、医療機関が就業規則を整備すべき理由とその実務上のポイントについて解説します。
就業規則の目的と位置づけ
就業規則の作成義務
労働基準法第89条により、常時10人以上の労働者を使用する使用者は、就業規則を作成し、所轄の労働基準監督署に届け出なければなりません(病院のほかに診療所や訪問看護ステーションなどを展開している場合は、拠点ごとに作成義務を判断します)。
「常時10人以上の労働者」には、正規職員だけでなく、パートタイム労働者やアルバイト、非常勤医師なども含まれます。それは就業規則において、労働条件(賃金や労働時間など)や、職場において労働者が遵守すべき職務規律を定める必要があるからです。
就業規則の法的な位置づけ
労働規範は「法令>労働協約>就業規則>労働契約」の順で適用されます。労働契約と就業規則の関係において、就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効となり、無効となった部分は就業規則の基準が適用されます。
一方で麻酔医や産婦人科医など、医療職の需要と供給の力関係において、圧倒的な売り手市場となっている職種については、就業規則よりも有利な労働条件で個別労働契約を締結することは珍しくありませんが、この場合は後者(個別労働契約)が優先されます。
医療経営における就業規則の役割
労働基準法などの労働法令は、主に事業主(使用者)に対する義務や禁止事項を定めた「行政取締法規」としての性質を持ちますが、労働者に対して直接的に禁止事項や職務上の義務を規定できるのは、実は自院の就業規則のみ…ということはあまり知られていません。
また医療現場は多職種が連携する複雑な組織であり、就業規則は全てのメンバーに対して要求する自院の行動規範を「職場のルール」として具現化したものといえます。つまり就業規則は、組織としての規律を維持し、チーム医療を円滑に進めるための基盤でもあるのです。
就業規則に記載すべき事項
就業規則の記載事項は、法令により必ず記載しなければならない「絶対的必要記載事項」と、定めをする場合に記載が必要な「相対的必要記載事項」の2つがあります。また長年の職場慣行を成文化した「任意的記載事項」も記載することができます。
絶対的記載事項
以下の事項は、いかなる場合も必ず記載しなければなりません。つまり自院において必ずルールを定めなければならない事項です。
- 労働時間等:始業・終業の時刻、休憩時間、休日、休暇に関する事項
- 賃金:賃金の決定、計算・支払方法、締切り・支払時期、昇給に関する事項
- 退職:退職に関する事項(解雇の事由を含む)
相対的記載事項
自院において次の事項に関するルールや制度を設ける場合は、これらについても就業規則に記載しなければなりませんが、ルールがなければ記載不要です。
- 退職手当の範囲、決定、計算・支払方法、支払時期
- 臨時の賃金(賞与等)や最低賃金額に関する事項
- 食費、作業用品等の負担に関する事項
- 安全及び衛生に関する事項(医療安全管理体制等)
- 職業訓練、災害補償、業務外の傷病扶助に関する事項
- 表彰及び制裁(懲戒):その種類及び程度に関する事項
任意的記載事項
絶対的記載事項や相対的記載事項以外に、経営理念や行動規範、就業規則の解釈や適用に関するルール、あるいはこれまで成文化されていなかった職場の慣行などを任意に記載することができます。
就業規則の作成ステップ
労働者の過半数代表者の選出
就業規則の作成にあたっては、労働者の過半数を代表する者を選出し、意見書を取得する必要があります。労働者の過半数代表者の選出は、投票や挙手といった民主的な方法で行われなければならず、使用者の指名による選出は認められません(意見書は無効)。
なお部長や課・科長などの「管理監督者」は職場の大多数を占める一般職の労働者にとっては使用者に該当するため、労働者の過半数代表者になることはできません。ただし管理監督者も労働者にはちがいありませんので、過半数代表者の投票に参加することは可能です。
意見の聴取と意見書の取得
事業主は作成・変更した就業規則について、過半数代表者等の意見を聴き、所轄の労働基準監督署に届出する際に、その意見を記した「意見書」を添付する必要があります。なお、意見を聴くことは義務ですが、必ずしも同意を得る必要はありません。
たとえ反対意見であっても、意見を聴いた事実があれば監督署は受理します。むしろ、反対意見を無理に肯定的な意見に書き換えさせるような行為こそ不適切であり、就業ルールを巡って労使間でトラブルになった場合に、就業規則が無効とされるリスクを高めます。
全ての労働者への周知
作成し届け出た就業規則は、全労働者に周知して初めて法的な効力を持ちます。周知の方法としては、常時見やすい場所への掲示、冊子の配布、またはイントラネット(ポータルサイト)への掲載など、労働者がいつでも確認できる状態にしなければなりません。
ちなみに筆者がある地方の企業に勤めていた時のこと、「改定作業中」を理由に経営者が就業規則をなかなか従業員に周知しようとしませんでした。しかしこのような就業規則は法的に無効とされるのみならず、労働基準法違反で30万円以下の罰金刑が科されます。
就業規則を整備する際のポイント
モデル就業規則を活用する
労働法令の専門家である社労士であっても、白紙の状態から就業規則を漏れなくダブりなく仕上げるのは至難の技です。そこで厚生労働省が公開している「モデル就業規則」を活用することを推奨します。法令改正にも対応しつつ、体系的な規定を整備することが可能です。
労使協定をピックアップする
法定労働時間を超える残業や法定福利費以外のものを賃金から控除したりする場合には、労使協定の締結が必要です。自院の就業規則を整備する際には、規定の内容に合わせてどのような労使協定を揃えるべきか、事前にリストアップしておきましょう。
関連規程に分割して委任する
多職種連携かつ女性職員の多い医療業界において、賃金体系や女性の就労ルールが複雑化しがちです。しかしこれらを全て就業規則に集約すると大法典となってしまい、使い勝手が悪くなるため、賃金規程などに分割し、就業規則の委任規程とするのが一般的です。
就業規則の作成義務のない診療所
労働基準法では常時10人以上の労働者を使用する事業主に対して就業規則の作成と届出を義務付けているのは冒頭で説明したとおりですが、歯科クリニックの平均的な労働者数は4〜5人程度です。このような小規模な診療所には就業規則は不要なのでしょうか?
業務命令権や懲戒権は就業規則の根拠が必要
使用者が労働者に対し、業務命令を下したり、懲戒処分を行ったりする場合は、あらかじめ就業規則にそれらを規定し、全ての労働者に周知されている必要があります。規則がない状態で人事権を行使したり懲戒処分を行うことは「権限の濫用」とみなされ、無効とされます。
法改正への対応は就業規則の整備が近道
労働者の健康管理にかかる情報収集や利用あるいは保管、医師の働き方改革にともなう勤務ルール、2026年10月から義務化されるカスハラ(ペイハラ)防止対策などは、事業規模の大小を問わず規程化する義務があるため、結局のところ就業規則を整備しなければなりません。
労働条件を巡る労使トラブルが生じると…
就業ルールが規程化されていないと、労使トラブルが発生した時の解決が困難になり、万一、地域労組が介入してくると事態が泥沼化し、診療どころではなくなります。多額の訴訟コストや職員の離職により、最悪の場合はクリニック経営が立ち行かなくなる恐れもあります。
まとめ
就業規則は単なる法的義務の履行にとどまらず、「選ばれる医療機関」として職員が安心して働ける環境を整え、法的リスクを回避するための極めて重要な経営ツールです。小規模なクリニックであっても適正な就業規則を整備することは、医療経営の基本中のキホンでしょう。
本記事の内容は投稿時点の法令にもとづき要点のみを平易な表現で執筆しています。実務においては所轄の官公署にご相談のうえ、貴院の実情に応じて適切にご対応願います。なお弊社でもオンライン人事相談を実施中です。詳しくは弊社ホームページよりご確認ください。
